悟りとはよく日常生活でも耳にすることがあります。何かに気づいた時や、何か思うことがあり行動を改めた時などです。それでは仏陀の悟りとは一体どういう意味なのでしょうか。
仏教でいう悟りとはサンスクリット語でbodhi(ボディ)といい、迷いの世界を超えて真理を体得することをいいます。「覚悟(かくご)」「証(しょう)」「証得(しょうとく)」などともいい、bodhi(ボディ)を音写した「菩提(ぼだい)」ともいいます。
お釈迦様の辿った道筋から見てみると、お釈迦様は人生上の苦悩を解決するために出家をされてから6年の凄まじい苦行をした後、難行苦行では悟ることができないと知って山を下りました。そして傷ついた体を癒すために、ナイランジャーナ河、「尼連禅河 (にれんぜんが)」で沐浴をしました。そしてそこを通りかかった村娘のスジャータに乳粥(ちちがゆ)を頂き、元気をとりもどしたという伝説があります。そしてブッダガヤーの菩提樹の木の下で深い瞑想に入り、ついに悟りを開きました。お釈迦様はこの時35歳でした。
当初、その悟りの境地は、ほかの人には理解できないと考え、自分一人で境地を味わうだけに留めようとしましたが「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」を受けて人々に説くようになったとされています。「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」とはバラモン教の最高神であるブラフマン(梵天)がお釈迦様の元にやってきて、是非とも人々に悟りの真理を説くようにと懇願しました。なかには説法の中身を理解し、苦しみを取り除くことが出来る者もでてくると。そうして梵天に説得されたお釈迦様は、当初はためらっていましたが、説法を決意しましたことをいいます。
以後入滅されるまで45年間説法の旅に出るのですが、お釈迦様の説法は「対機説法(たいきせっぽう)」といい、直接相手に、ご自身のお言葉で教えを聞く人の能力・素質にふさわしく法を説いてきました。そしてそれは病に応じて薬を与える「応病与薬(おうびょうよやく)」ともいわれます。仏は衆生の病を癒す医者の王に例えられることがありますが、仏が衆生の病の種類に応じて、その病を癒す薬を調合して与えるという発想が生まれました。
医者は患者の病を治すことだけを目的としていて、お釈迦様が説かれた仏教の教えは成仏だけを目的としています。成仏とは仏に成るということで解脱する、悟りを開くということです。
釈迦様の説法の根本は、その悟りの体験を言語化して伝え、その境地に人々を導くことにありました。
インドでは、悟りは輪廻を繰り返しながら、気の遠くなるような長い年月をかけて到達できると考えられていましたが、現世で到達されるべきものとして理解されることが多くなりました。日本では平安時代に空海や最澄が唐に渡り、日本に密教をもたらし、この身このまま悟りを開く「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」が説かれたり、悟りとそれを妨げる煩悩は、ともに人間の本性の働きであり、煩悩の本体は真実の真理であるので煩悩を離れて菩提もないことをいう「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」がスローガンとして掲げられました。