世界三大宗教とはキリスト教、イスラム教、仏教とされていて、それぞれ世界中に信者がおられます。
日本でも仏教徒はもちろんのこと、キリスト教徒やイスラム教徒がおられます。 ここではキリスト教と仏教の違いとはなんなのか考えてみたいと思いますので、まずはお釈迦様の足跡から始めたいと思います。
仏教の開祖であるお釈迦様は、人生上の苦悩を解決するために出家をされてから6年の凄まじい苦行をした後、難行苦行では悟ることができないと知って山を下りました。そして傷ついた体を癒すために、ナイランジャーナ河、「尼連禅河 (にれんぜんが)」で沐浴をしました。そしてそこを通りかかった村娘のスジャータに乳粥(ちちがゆ)を頂き、元気をとりもどしたという伝説があります。そしてブッダガヤーの菩提樹の木の下で深い瞑想に入り、ついに悟りを開きました。お釈迦様はこの時35歳でした。
仏陀となり悟りを開くに至るまでは本当に長い時間が必要と考えられていましたが、現世で到達されるべきものとして理解されることが多くなりました。日本では平安時代に空海や最澄が唐に渡り、日本に密教をもたらし、この身このまま悟りを開く「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」が説かれたり、悟りとそれを妨げる煩悩は、ともに人間の本性の働きであり、煩悩の本体は真実の真理であるので煩悩を離れて菩提もないことをいう「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」がスローガンとして掲げられました。
仏教では、人は仏陀となることを目標とします。仏陀であるお釈迦様は、神ではなく我々と同じ人でありますので、我々も修行を重ねればいつかは仏陀となれる可能性があります。
キリスト教は世界で最大の信者を擁し、イエスをキリスト(救い主)として信じる宗教であります。イエス・キリストとは救世主であるイエスという意味です。
キリスト教では、創造神である唯一の神が世界を造ったとされ、人は罪を犯せば必ず罰を受けると考えられ、キリストの公開処刑の死刑である十字架に磔(はりつけ)になって処刑された刑は、人類の全てが受けるべき罰を、救い主であるキリストが身代わりとなって罰を受けたことを意味します。ですので、みずからの罪を認め、悔い改めて、救い主としてキリストを信じた人は、犯した全ての罪は赦され、罰を受けることはありません。
仏教ではそうした創造神のような神を説きません。全ては縁起の法によって存在すると考えられ、人と仏は本質的には変わりがないと説きますので、仏陀(真理に目覚めた人)になるために人が努力することを求めますが、キリスト教は、神に救いを求めることはできても、人間は神にはなれず、神になる道も説かれません。
すべての人は例外なく罪人でおろかであり、神の愛と憐れみと恵みに頼るしかないことを前提にしています。日本ではキリスト教徒は、カトリックとプロテスタントを合わせてもそこまで増えなかったようです。その理由の一つとしては、日本は八百万の神(やおよろずのかみ)を信じる風土にありますので、キリスト教での唯一神であるイエス・キリスト無数の神々の1人として考えられたのかもしれません。
八百万(やおよろず)とは無限に近い神がいることを表しており、自然のもの全てに神が宿という考えであります。