仏像を拝んでみると様々な手の形をしているのが目に入ります。これは一体何なのでしょうか。何かを表現しているのでしょうか。実際仏像の手の形には様々な意味が込められています。仏像が行なっている手の形は、両手で示すジェスチャーによって、様々な意味を象徴的に表現するものであります。それらはサンスクリット語でムドラーといい、印相(いんそう・いんぞう)、印契(いんげい)、あるいは単に印(いん)ともよばれます。
インドには古くから手の仕草で気持ちを伝える習慣があり、またインドの伝統舞踊に見る多くの手の動きや表現の要素なども加えられているようです。
印(いん)には仏様の功徳や働きなどを象徴し、我々にどう働きかけてくれるのかを表現してくださいます。また印(いん)によっては見ただけで仏像の種類を特定できるものもあります。仏教美術においては持物(じもつ)と共に仏像においての図像表現の重要な標幟(ひょうじ)となっています。持物(じもつ)とは仏様の手にもたれている持ち物のことです。特に密教では、教理そのものを表し 重要な意味を持っています。行者が本尊に印相(いんそう)を結ぶことによって、その仏様と身体的に同一を達成する、いわば身密行(しんみつぎょう)として重視されました。
また密教の曼荼羅などには、様々な印相を結ぶ仏、菩薩像が表現されています。 仏像の源流といえばやはり釈迦如来像で、基本的な印相(いんそう)はお釈迦様のある特定の行為に伴う身振りから誕生したもので、これを「釈迦の五印」といいます。「釈迦の五印」は、説法印(せっぽういん)、施無畏印(せむいいん)、与願印(よがんいん)、禅定印(ぜんじょういん)、降魔印(触地印)の五つがあります。
説法印(せっぽういん)は転法輪印(てんぽうりんいん)ともいい、お釈迦様が説法をされている手の形を表しています。いくつかの印(いん)があります。施無畏印(せむいいん)は右手の掌を前に向けた形で、怖がらないでいいですよと、人々の畏れを取り除くという印(いん)です。与願印(よがんいん)は指先を下にして前に向けた形で、人々の願いを叶え、望むものを与えるという印(いん)です。禅定印(ぜんじょういん)は左手の掌の上に右手を重ねて、両親指を軽く触れ合わせている形です。お釈迦様が瞑想している時の形からきています。降魔印(触地印)は坐像の時に左手で指先で地面を触れている形です。お釈迦様が瞑想中に魔を指先に地面を触れることで退けたという逸話に由来しています。密教の尊像の場合は金剛界(こんごうかい)の大日如来の智拳印(ちけんいん)や胎蔵界(たいぞうかい)の大日如来の法界定印(ほうかいじょういん)などのように各尊像が、それぞれ特定の印相(いんそう)を持ち、その数は膨大となります。
しかし仏像鑑賞においては、曼荼羅の尊像の数よりはるかに少なく、仮に印相(いんそう)の区別がつかなくても判別に困ることはありませんが、釈迦如来以外にも、施無畏印(せむいいん)、与願印(よがんいん)をした如来像もあります。これは通仏相(つうぶつそう)といって、他の如来と共通したお姿の場合があり、この印相(いんそう)のみで何の仏かを判別することは不可能な場合が多いです。