人間にとって目は不思議なパーツであります。「目は口ほどに物を言う」という諺があったり、人と話をするときには普通目を見て話します。そうしたことから感情の最もよく表れるのが目です。仏像鑑賞にとっても仏像を拝む際は目を見て拝みますので、仏像において良く見られる非常に大事なパーツになっています。
日本の木彫仏を見るときに一番わかりやすいのは、玉眼(ぎょくがん)であるか否かであります。これは像にリアリティを与えるために水晶を眼の部分に入れ込んだ日本独自の技法で、鎌倉時代以降に盛んに行われました。
玉眼(ぎょくがん)の像は鎌倉時代以降と考えて差し支えないと思われます。しかし鎌倉時代以前の仏像に修理を施すときに玉眼を入れることがある場合はこれに該当しません。
これに対して彫りであらわす場合は彫眼(ちょうがん)といいます。玉眼(ぎょくがん)の方が彫眼(ちょうがん)よりも目が大きいといえるでしょう。金銅仏を見てみると眼の部分に銀などの金属を象嵌している像があります。
観音菩薩は有名な経典である「観音経(かんのんぎょう)」にそのご利益が説かれていますが、その中に「慈眼視衆生(じげんししゅじょう)」とあります。これは慈悲の眼で衆生を見つめるという意味ですが、その目や表情は慈悲の心を込めた表情を示しています。
目は時代によっても形状が異なります。止利仏師(とりぶっし)は飛鳥時代の代表的な仏師ですが、その仏師による仏像は、目はアーモンド型に見開いています。平安時代には少し目が小さくなり、切れ長の目をしている場合が多く見られます。鎌倉時代には玉眼(ぎょくがん)が登場しました。
如来や菩薩は優しい表情を浮かべ、目も見開いてもなく閉じてもいない、半眼(はんがん)が多いのですが、明王や天部などの忿怒相になってくると大きな目を見開いている像が多く見られます。これは我々衆生を救うために仏の敵に対して怒っている目です。仏の敵を睨んでいるのと同時に我々を守ってくださっている目なので、いろいろな意味を含んでいます。如来の目は三昧(さんまい)といって心を静めて乱れず集中している状態を表すので、禅定の相であります。
釈迦如来であるお釈迦様も出家後、6年の凄まじい苦行をした後、難行苦行では悟ることができないと知って、現在のインド、ブッダガヤーの菩提樹の下で深い瞑想に入りついに悟りを開き、仏陀・目覚めた人となられたので、禅定の相であります。