遥か昔から今日に至るまで多くの仏像が造られてきました。そして今でも多くの仏像が色々な地域や国で造られています。それらの仏像は決してお寺にだけ安置されるためだけではなく、個人用にも造られています。何故人々は仏像を必要としているのでしょうか。
お釈迦様が入滅された後に、仏教は仏弟子や信者によって広がりをみせました。お釈迦様の遺跡地である仏跡に遺骨を納めた仏舎利塔が建てられ、偉大なる業績を偲びました。その後約500年の間、釈迦の像が作られませんでした。かつては崇高なる神々を形で表すのはタブーとされており、同じように偉大なお釈迦様のお姿を我々と同じ人の形で表すのは恐れ多いと考えられてました。
また臨終の際に「自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」=「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きなさい」と最後に説かれたのも仏像が作られなかった理由の一つであると考えられております。
その後ギリシャを起源とするヘレニズム文化の影響等などにより、1世紀ごろからガンダーラで仏像彫刻が作られ始めたのと同時期に、インド中央部のマトゥラーでも仏像が作られ始めました。仏教徒の間でお釈迦様への思慕が強まっていった中で、仏像(釈迦の像)が作られるようになったと考えられています。
仏像が作られる意味(目的)は多様でありその仏様の種類によっても違いがある場合があります。仏像は人の願いや思いが具現化したものであり、仏教の教えを体現化した存在です。
例えば密教の五仏の中心尊である大日如来は宇宙の実相を仏格化した根本仏であります。薬師如来は医王仏とも呼ばれ、特定の方の「病気平癒(びょうきへいゆ)」を祈った仏様と言われていて、平安時代には多く作られました。
阿弥陀如来は「極楽浄土」の仏様と言われていて、現世の「安穏」と「極楽往生」を願って造仏されてきました。また、不動明王を中心とする五大明王は、鎮護国家的色彩の強い像であるなど仏像によってその意味(目的)は様々です。
お経を読むことができない方々にとって、仏像は一目見ただけで仏教の有り難さや仏様の慈悲深さを感じることができます。また密教では、経典だけでは全ての教えを解かりえないので、仏像や曼荼羅で悟りの世界を視覚化するといった意味合いもあります。
如意宝珠は、願いを叶えてくれる宝珠で、中に全ての善い行いを納めています。他の形に炎を表現した火焔宝珠(かえんほうしゅ)や宝珠を三つ合わせた三弁宝珠(さんべんほうしゅ)などがあります。如意宝珠は地蔵菩薩や虚空蔵菩薩、如意輪菩薩などが持たれています。