無仏像の時代とはどんな時代でしょうか。
無仏像の時代とは仏像が無い時代と書きますが、仏像とは仏陀の像のことで、礼拝対象である仏陀の彫像や画像を指します。それでは一体いつ、どのようにして仏像が誕生したのでしょうか。
仏教の開祖であるお釈迦様は、入滅された後に、仏教は仏弟子や信者によって広がりをみせました。お釈迦様の遺跡地である仏跡に遺骨を納めた仏舎利塔が建てられ、偉大なる業績を偲びました。
その後約500年もの間、釈迦の像が作られませんでした。かつては崇高なる神々を形で表すのはタブーとされており、同じように偉大なお釈迦様のお姿を我々と同じ人の形で表すのは恐れ多いと考えられてました。
また臨終の際に「自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」=「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きなさい」と説かれたのも仏像が作られなかった理由の一つであると考えられております。
初めの頃はお釈迦様は人間の形に描かれることはなく、釈迦の足跡を表す「仏足石(ぶっそくせき)」や釈迦がその下で悟りを開いた「菩提樹(ぼだいじゅ)」、釈迦の説法を象徴する「法輪(ほうりん)」などお釈迦様に関係の深い形像で代用し、お釈迦様の生涯や前生話(誕生前の前世の因縁話)を仏塔のまわりの石柵などに彫刻をし、その偉業と姿を思い慕う気持ちから造仏が始まりました。
三十二相とは仏様にそなわる32の顔や手・足などの優れた身体的特徴のことですが、その内の足下二輪相(そくげにりんそう)とは、両足の裏に輪形の相、千輻輪(せんぷくりん)という車輪の模様が現れています。お釈迦様の足を型どった仏足石(ぶっそくせき)はこれを表したものです。
仏像の起源には諸説あるらしいのですが、ギリシアの神像にならって、現パキスタン領のガンダーラ地方で紀元一世紀頃にヘレニズムとイラン文化の影響の強い釈迦像が、仏伝図中の一登場人物としてあらわされました。
初めは釈迦像だけが特別大きく描かれてはいませんでしたが、やがて礼拝の対象としてふさわしい正面向きで立像、あるいは坐像の独立像に発展していきました。この仏教美術はパキスタン北西部を中心としていたので、この地域の古い名前にちなんで「ガンダーラ美術」といいます。
ガンダーラで仏像彫刻が造られ始めたのと同時期に、インド中央部のマトゥラーでも仏像が造られ始めました。この「マトゥラー仏」は「ガンダーラ仏」とは違い、インド文化のなかで生まれました。
仏像の表現は制作された時代・地域・仏師によって違いがあり、その材質や技法も多彩でありますが、「ガンダーラ仏」がその風貌や衣の表現にギリシア彫刻の影響を強く見せるのに対して、「マトゥラー仏」では風貌も純インド的で体つきもたくましい姿でガンダーラの仏陀像とは対照的な作風を示しています。
仏像はお釈迦様の偉業と姿を思い慕う気持ちから造仏が始まりました。
お釈迦様が在世中は、その説かれた教えだけを拠り所にする生活が最初の仏教の形だったのですが、インドのクシナガラという場所で入滅された後、その遺骨を分けてその舎利(しゃり)を納めた仏舎利塔が建てられ、崇拝の対象として紀元前後頃から2世紀にかけて仏像が登場しました。
お釈迦様が入滅後から仏像が出来るまでを無仏像の時代といいます。