仏教が生まれた地であるインドは多くの聖地があります。
日本の四国巡礼は真言宗の祖である弘法大師空海の足跡をたどった聖地でありますが、仏教の開祖であるお釈迦様のゆかりの地であるインドの四大聖地は仏教の代表的な聖地であります。
順を追って説明していきたいと思います。
ルンビニーは現在のネパールの南部タライ平原にある小さな村で、お釈迦様の生誕の地とされています。ネパールの首都であるカトマンドゥから飛行機でも行くことができます。
2,500年前に現在のネパールのルンビニーでシャカ族の王子として生まれ、何不自由ない暮らしをしていましたが、ある時王城の東の門から出て老人に会い、南の門から出て病人に会い、西の門から出て死人に会い、この身には老病死という避けることのできない生の苦しみがあることを目の当たりにしました。最後に北の門から出た時、出家した修行者に会い、その清らかな姿を見て出家の意志を持つようになったといわれています。
ブッダガヤは、インドのビハール州のガヤという都市で、お釈迦様の成道の地とされています。現在も世界中から多くの巡礼者が訪れます。各国から来た仏教徒の熱心な祈りは絶えることがありません。
お釈迦様が出家をされてから6年の凄まじい苦行をした後、難行苦行では悟ることができないと知って、ナイランジャーナ河、「尼連禅河 (にれんぜんが)」で沐浴をしました。そこを通りかかった村娘のスジャータに乳粥を頂き、元気をとりもどしたという伝説があります。そしてブッダガヤーの菩提樹の木の下で深い瞑想に入り、ついに悟りを開きました。お釈迦様はこの時35歳でした。
サールナートは、インドのウッタル・プラデーシュ州にある地名で、ヴァラナシ(ベナレス)の北方約10kmに位置します。
お釈迦様が悟りを開いた後、初めて説法を説いた地とされる初転法輪(しょてんぽうりん)の地であります。鹿が多くいたことから鹿野苑(ろくやおん)とも表されます。
悟りを開かれた後、しばらくの間、瞑想をし続けました。そしてこの真実の法則は誰にも分からないであろうと当初は判断し、人々に語ることをやめておこうとしました。しかしその気持ちに気づいたバラモン教の最高神であるブラフマン(梵天)がお釈迦様の元にやってきて、是非とも人々に悟りの真理を説くようにと懇願しました。なかには説法の中身を理解し、苦しみを取り除くことが出来る者もでてくると。そうして梵天に説得されたお釈迦様は、当初はためらっていましたが、説法を決意しました。この出来事を「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」といいます。
説法を決意したお釈迦様は、苦行時代に共にした仲間である5人の比丘(出家修行者)と語るためにサールナート鹿野苑 (ろくやおん)に行きました。初め5人の比丘はお釈迦様のことを苦行を、途中で修行を諦めた人であると思って、仲間として受け入れることを拒否しようとしました。しかしお釈迦様のあまりにも清いお姿を見て、それまでの偏見を捨て、お釈迦様を丁重に迎え入れることにしました。そこでついに初めての説法をしました。これを「初転法輪(しょてんぽうりん)」といいます。5人の比丘はお釈迦様の弟子となり、これが仏教教団の出発点であります。
クシナガラは、現在のインドのウッタル・プラデーシュ州東端のカシア付近の村で、釈尊入滅の地とされます。
80歳に達したお釈迦様は弟子のアーナンダ一人を連れて最後の説法の旅を続けました。そしてある村の、チュンダという者がお釈迦様に食事を供養しました。すると食後に急に激しい下痢に襲われてしまいました。しかしそのことによってチュンダが非難されないようにと、チュンダの供養を特に功徳のあるものだと称えました。そして苦しみながらもクシナガラという村の二本の沙羅双樹の下で、死の直後まで説法をし、「教えを頼りに、怠ることなく修行に励むように」という言葉を残してお亡くなりになりました。
意外に思われるかもしれませんが、四大聖地全てがインドにあるわけではありません。お釈迦様の生誕の地とされている、ルンビニーはネパールにあります。
お釈迦様がおられた2,500年前の時代の話なので当然現在の国境は関係なく、ルンビニーはインド国境からも10kmほどしか離れていません。地理的にも文化的にも昔からインド圏の一部だったのではないでしょうか。四大聖地の内のブッダガヤはお釈迦様の成道の地とされていて、これら4ヶ所の中でも最も尊い場所であるとされています。
もし機会があれば是非訪れていただければと思います。