仏像を見てみると男性のような像もあれば女性のような像もあります。それでは仏様に性別はあるのでしょうか。それとも性別を超越した存在なのでしょうか。探ってみたいと思います。
本来仏像というのは釈迦像を指します。如来像は仏教の開祖であるお釈迦様がモデルですので当然男性像になります。しかしそれは礼拝の対象となる仏像が釈迦像であった時代です。
その後お釈迦様と同じ悟りを開いて、自他ともに救われると考える人々があらわれました。いわゆる大乗仏教の起こりであります。日本の仏教は大乗仏教で、大乗仏教の国では、僧侶にならなくても仏教の教えを信じて正しい生活をしていればいつかは悟りの境地に達することができると考えられています。
大乗仏教の影響から菩薩像などの尊像が多く作られ始め、大乗仏教の修行僧たちは現世利益と来世の救済を求める信者に造塔や造仏を功徳として、その行為を仏教僧自ら始めて信者にも寄進を勧めました。
大乗仏教が仏教の主流になってくるにつれて、衆生を救済するために超人的な能力を発揮する仏様が、救われる側の我々衆生と同じ姿をしているわけではないと考えられ、三十二相八十種好(さんじゅうにそうはちじゅうしゅごう)という如来の体の特徴がかかげられました。
三十二相八十種好(さんじゅうにそうはちじゅうしゅごう)とは仏様にそなわる32の顔や手・足などの優れた身体的特徴のことです。性別についても男女を超えた存在であるものになったということです。
つまり釈迦如来をはじめ、すべての如来像は男性でもなく、女性でもないということです。
それでは菩薩像はどうでしょうか。菩薩の中の観音菩薩は一見女性のようなお姿に見ることができます。しかし菩薩像も如来像と同様に男女の性を超えていると考えられます。菩薩によっては将来は如来になることが約束されている菩薩もおられるからです。
不動明王は儀軌(ぎき)といわれる一連の経典で細かく規定されていますが、それによると童子の形に作ると規定されています。童子とは男の子をさしますので男性であるということです。もちろんそのお姿からは観音菩薩とは違って女性を連想する人はいないでしょう。役割として男性像の方が力をアピールできるお姿なのではないでしょうか。
天部の像は男性像と女性像があります。男性は帝釈天や四天王、毘沙門天などで、毘沙門天と吉祥天は夫婦であるとされているので、吉祥天も女性であるとされています。女性像はほかに弁才天や鬼子母神などです。
如来や菩薩は基本的に性を超越している存在だと考えられますが、明王や天部の像になると比較的はっきりしているものが多く見られます。明王や天部の護法神の方がご利益がわかりやすいのがその理由の一つであると考えられます。魔を退け、災いをおこさせないというご利益からは男性のイメージが合っていると思われます。