よく仏陀と耳にしますがそれは一体誰をさすのでしょうか。仏像のことなのでしょうか。そもそも仏陀とは固有名詞ではなく「目覚めた人」「悟りを開いた者」という意味で、お釈迦様一人を指すのではなく、「三世十方(さんぜじっぽう)」の諸仏も指します。三世とは過去・現在・未来のことで、十方とはあらゆる方角を指します。つまり全ての仏様はブッダということになります。ブッダはその音を漢字に写して仏陀と記します。
全ての仏様はブッダでありますが、お釈迦様は実際に実在した人物で、本名はゴータマ・シッダールタといいます。シャカとは釈迦族出身を意味し、「釈迦牟尼(しゃかむに)」「釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)」「釈尊(しゃくそん)」とも聖者という意味で呼ばれます。
ゴータマ・シッダールタは2500年前に現在のネパールのルンビニーという所で、父シュッドーダナ「浄飯王(じょうぼんおう)」と母マーヤー「摩耶夫人 (まやぶにん)」の長子でシャカ族の王子として生まれ、何不自由ない暮らしをしていました。
ある時王城の東の門から出て老人に会い、南の門から出て病人に会い、西の門から出て死人に会い、この身には老病死という避けることのできない生の苦しみがあることを目の当たりにしました。最後に北の門から出た時、出家した修行者に会い、その清らかな姿を見て出家の意志を持つようになったといわれています。この伝説を「四門出遊(しもんしゅつゆう)」といいます。
そして29歳の時、王宮を抜け出して出家をし、6年の凄まじい苦行をした後、難行苦行では悟ることができないと知って、ナイランジャーナ河、「尼連禅河 (にれんぜんが)」で沐浴をしました。そこを通りかかった村娘のスジャータに乳粥を頂き、元気をとりもどしたという伝説があります。そしてブッダガヤーの菩提樹の木の下で深い瞑想に入り、ついに悟りを開きました。お釈迦様はこの時35歳でした。悟りを開いたということは修行の道を完成させたということなので「成道(じょうどう)」ともいいます。この日は12月8日であったと伝えられています。
悟りを開かれた後、しばらくの間瞑想をし続けました。そしてこの真実の法則は誰にも分からないであろうと当初は判断し、人々に語ることをやめておこうとしました。しかしその気持ちに気づいたバラモン教の最高神であるブラフマン(梵天)がお釈迦様の元にやってきて、是非とも人々に悟りの真理を説くようにと懇願しました。なかには説法の中身を理解し、苦しみを取り除くことが出来る者もでてくると。そうして梵天に説得されたお釈迦様は、当初はためらっていましたが、説法を決意しました。この出来事を「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」といいます。
説法を決意したお釈迦様は、苦行時代に共にした仲間である5人の比丘(出家修行者)と語るためにサールナート鹿野苑 (ろくやおん)に行きました。初め五人の比丘はお釈迦様のことを苦行を、途中で修行を諦めた人であると思って、仲間として受け入れることを拒否しようとしました。しかしお釈迦様のあまりにも清いお姿を見て、それまでの偏見を捨て、お釈迦様を丁重に迎え入れることにしました。そこでついに初めての説法をしました。これを「初転法輪(しょてんぽうりん)」といいます。5人の比丘はお釈迦様の弟子となり、これが仏教教団の出発点であります。
お釈迦様の教えは、人間の生きるべき道を明らかにしたものであり、人生の苦しみから脱し、迷いの輪廻から断ち切って自由の境地に至る、それが解脱であり涅槃であります。その涅槃に到達するための実践方法として正しい生き方である「八正道(はっしょうどう)」の実践を説きました。また「中道(ちゅうどう)」といい苦に偏ることも楽に偏ることもなく、その2極から離れた自由の立場を実践することを説かれました。
以後、80歳で入滅されるまで各地で教えを説かれました。80歳に達したお釈迦様は弟子のアーナンダ一人を連れて最後の説法の旅を続けました。そしてある村の、チュンダという者がお釈迦様に食事を供養しました。すると食後に急に激しい下痢に襲われてしまいました。しかしそのことによってチュンダが非難されないようにと、チュンダの供養を特に功徳のあるものだと称えました。そして苦しみながらもクシナガラという村の二本の沙羅双樹の下で、死の直後まで説法をし、「教えを頼りに、怠ることなく修行に励むように」という言葉を残してお亡くなりになりました。
偉大な指導者は亡くなられましたが、今日でもお釈迦様の教えが世界中で実践されています。